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<“自らの尾を喰らう蛇”――それは魔術ではなく、“我々”の象徴だ>
若者達よ。 いや、最早こう呼ぶ方が適切であろうか―― “若き魔術師”達よ。 諸兄は、学び、思考し、観察し、流れを見出し、道を見出し、 そして、“社会”に溶け込むことを決意した。 無論、“社会”にも無数の異なる流れたちが混在し、 その一つに合流することは、別の一つに逆らうことになるかもしれぬ。 が、だ―― 若き魔術師よ。 逆らう流れも、やはり“流れ”だ。 時に逆流を強いられることを、決して拒み、あるいは厭うてはならない。 進む流れと、押し戻す流れとを繰り返すならば“波”が生まれる。 そして、波は―― 揺り返すうちに、大きな“流れ”をその内側に育むものだ。 忘れてはならない。 恐れてはならない。 いかなる方向を持とうとも、“流れ”は常に、意志と意識との集合であり、 それはすなわち“魔術そのもの”であるのであろうという事実を。 忘れてはならない。 畏れねばならない。 対立が無く、葛藤が無く、調和と安定のみに満たされ、もしも“流れ”がとどまるのなら―― その時こそが、“魔術の死する時”であるのだということを。 我々は、常に流れ続けなければならない。 思考し、意識し、変革しつづけなければならない。 ・・・私が、諸兄に教え続け――あるいは問いかけ続けてきたのは、 ただ、それだけの小さな事実を、“理解”してもらいたかったが故に過ぎない。 そして、今、 “その理解を得た”諸兄に向けて、私は最後の問いを為そう。 <魔術の目指すべきところは、一体どこか> という問いを。 思い出してほしい。 ――社会は魔法を容認しない。故に、魔術師は社会から隠れようとする―― ――魔術はしかし、“社会”無しには存在しえない。故に、魔術は社会と敵対しない―― なれば故、我らはいかなる形であろうと、 “社会と流れを溶かし合う”、そのことによってしか、真に“魔術師”ではありえない。 だが、しかし。 “より大きな流れに沿う”だけであるなら、“魔術”の存在意義は無い。 基本にして、原点へ。 本講の一番初めに学んだことへと、今一度立ち帰ってみよう。 そう。 魔術とは“意志と意識を、すなわち己の<流れ>を凡て、目指す成果を為す得る術”だ。 大きな流れに沿いつつも、 あるいはそこに同化して、あるいはその影に隠れても―― “君の魔術”という流れは、決して、“大きな流れそのもの”では無い。 では、“君の魔術で<大きな流れを制御する>”ことが、<魔術の目指すところ>であろうか? そのようにして、そのようなことを繰り返し、 “全ての流れを意のままに” もしも君が為し得たのなら―― そこに訪れるものは、ただ <停滞>だ。 かくあることを目指すのならば、それは自らを滅ぼすことを望むに等しい。 問おう、幾度でも。 『魔術の目指すところは、何処か』 “何を為すため” 君は、君の“流れ”を統べんと志したのであったのか? その志は、今も変わらず “流れ”ているか? 変わったのなら、今は何処を “目指して” いるのか? その問いの果てに見えるのは―― 必ずや、一つの大きな断絶であり、 その断絶をも飲みこんで―― あらゆるものを統べながら―― 流れる、巨大な、整然とした―― しかし“奔流” であるに違いない。 その“奔流”の何たるを、君が答えと見出したのなら、 今一度、問おう。 『魔術の目指すところは、何処か』 ――そう。 その答えさえ“流れ続ける”ものであり、 また、“流れ続けねばならない”ものだ。 もしも、それを拒まんと、君が・誰かが、欲する・欲した のであれば―― もしも、誰かの・君の “流れ”が、それほど強く“ある”のなら―― あるいは、私は思考するのだ。 “奔流”さえも、一つの“波”であるのであるかもしれないと。 しかし、だ、若き魔術師よ。 忘れてはならない。 “波”は決して、停滞ではない。 寄せては返す波に対して、 “影響を与えぬ流れ”など、どんなささいなものであっても、存在し得ない。 故に、だ、若き魔術師よ。 “奔流”を常に、意識したまえ。 “瞬間”を常に、忘却したまえ。 そうあることが、すなわち“目指す”ということで―― それが、“流れる”ということだ。 “奔流”の果てが もしもあるなら、いつかは“波”が、その果てさえをも壊すよう―― 私は、だから、 喜んで―― 石ころのように流転しよう。 若者よ。 若き魔術師よ。 私の作る、ほんのささやかな“流れ”も、“波”も―― “君の目指すところ”へ、いずれかの形で“繋がる”のだと、どうか忘れないで欲しい。 それが、私が君に与える―― 最後の教えで、また問いだ。 以上で、私の講義を終わる。 行きなさい。 君の変えるべき場所へ―― あるいは、赴くべき場所へと。